【連載コラム】賊がいた!~尾張を開いた木曽川文化・2

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「木曽川に賊がいた」という話を聞いたことはないだろうか?賊という言葉自体、あまり聞こえのいいフレーズではないが、犬山には確かに賊がいた。それも昭和の初めくらいまで、確かにいたのだ。

このコラムは結構綿密な取材の上で書いてる。コラムとは事実関係を踏まえた随筆だと筆者なりに思うのだが、調べれば調べるほどわからなくなr…。

コラムを書くのが楽しいかどうかだが、楽しいというよりもどうやら犬山の深渕へ引きずり込まれているようだ。そのきっかけになったのは明らかに一人の人物による影響だし、もっと言うとこの連載は終わりが見えない。正直に言おう、終わらないコラムにあなたは付き合っているのである。何をどう受取るかはアナタ次第だが、筆者自身大変楽しく書かせてもらっている。今回はそのきっかけになる話。どうしてこんなめんどくさいことを引き受けたのか?そこを語っておかないと話が進まないような気がするのだ…。

木曽川にはまつりがあった!

 

木曽川にはまつりがあった、と前回の記事にはそう述べた。この祭りが津島の天王祭に続くまつりだとも述べたはず。犬山市には天王祭に続くまつりが約3箇所あったと記されていた。そのうち形式だって残されているまつりは三光稲荷神社が毎年7月22日に行う夏まつりだ。

以前は街中で山車の引き回しもあったとか、ある町では馬が町中を走っていたとか記述もある。すべて文献からの知識ではあるが、話によるとどうやらそれ以外にも派手なまつりが行われていたようだ。と、予想の範疇でしかないためこれ以上の詮索が困難。そのため取材も女ンを極めた。

ライターという職業はまずほしい事がある。一次情報言うのだが、町の文化を追いかけるには町の文献、人の話、なにより情熱を燃やすだけの価値を見つけなければならない。

とりわけ今回の木曽川まつり主賓、Ren Satoh(かっこよくしたが以下佐藤)について語るにはあまりにも多くの事柄から彼を語らないとイケないので、ちょこっとだけ紹介する。

今回の木曽川まつり、きっかけは佐藤が犬山市内の内田町という地区のまきわら舟保存会を引き継いだことに始まる。高齢化してしまった内田町のまきわら舟保存会が存続を佐藤に依頼したのだ。確か2018年夏のことだと思う。

その夏のまつりはなんとかまきわら舟を身内で制作し、木曽川に浮かべ、神主さんをお呼びして奉納した。そこまでは古式に則り行った。取り仕切ったのは犬山鵜飼で活躍する若手の船頭が中心だった。

筆者はそのまつりが終わった後から関わっている。ガッツリとというよりどっぷりとハマったのはそこから。結構な無茶ぶりにも思えたが、ライター魂に火が…付くわけなく、圧倒的な情報不足からこの祭りの縁は始まっているのである。

しかし、そこは佐藤、人が集まる人柄というかなんというか、元船頭さんで、御年90歳を超える老師との出会いが、この土地の文化や歴史を考えさせられるきっかけになったのは間違いない。

鵜飼の船頭はなぜ絶滅しそうなのか?

現在鵜飼の船頭として活躍する若手船頭

老師の話によると、戦前、戦後の船頭を生業にする人の人数は300人ほど居たそうだ。ちょうど写真の様な様式の和船で木曽川を上ったり下ったりして、犬山からは主に川石、塩、工芸品などを遠く桑名まで運んだり、美濃加茂や八百津から運んだりしていた。いわゆる水運である。

当時は橋など渡っていなかったため、犬山⇔鵜沼間を渡り船で往来していた。当時の写真があるのだが、木曽川を上り下りするのは帆掛け船が主流、犬山近辺は午後から川上に向かって風が吹くのでその自然環境を利用したのだろう。生業として船頭さんが多数いて、犬山から桑名まで船に乗って川石運んでいたというのだから驚きだ。

因みに、桑名から犬山までは自転車で木曽川右岸を登ってきたというのだから水運業が一日仕事だったことも伺える。

鵜飼のというより、そんな船頭さん達がなぜ激減したのか?理由は簡単で、単に川を利用して物を運ぶ需要が減ったこと、道路、鉄道が発達して天候に左右される船に頼らなくて良くなったことが挙げられる。

犬山では昭和32年から始まった犬山頭首工の工事、伊勢湾台風の影響も大きかった。

現在では犬山周辺の木曽川で働く漁業組合員は高齢化も進んでいる。漁業としての船頭の必要性も少なくなってきてしまい、鵜飼の船頭さんが漁業組合員の兼業者が多かったことも減少の原因にあげられるのである。

佐藤はこの状況を6年、自身も鵜飼の船頭として指導を受けながら見てきている。「明らかに始めた頃より魚が減ってきている」と佐藤は言う。夏になると毎日川に立つので肌で感じているのだ。

鵜飼の船頭がいることとはなにか?

写真提供;白帝文庫

鵜飼の船頭は川並衆だと宣伝されていることがある。筆者が調べていくうちに感じたのは、川の自警団だったのではないか?と感じる。

川が増水する、氾濫しそうになったら町中走り回って知らせる、犯罪を未然に防ぐ(坂祝には山賊がいたそうだ)などなど。自警団として川の民で、川でのまつりの仕切りも任されていたと思われる。思われるという不確かな情報ではあるが、記録には鵜飼町で三光寺のかわ祭りがあったとされている。

先にも記述したが、川を信仰していたり、山を信仰していたりと、犬山は町よりも先に自然信仰のほうが先に発展しているのだ。その確たる証拠が桃太郎神社であり木曽川沿いに史跡として残る港跡。川信仰は特に対岸の岐阜県でも神社仏閣が中心となり残っているのだ。

鵜飼の船頭が~というよりも木曽川に敬意を表して敬い、時に氾濫する川に恐怖と尊敬を込めていたのは間違いない。川並衆とは犬山だけで活躍した船頭ではなく、上流から下流まで漁業、水運業を生業としていた川の民なのだ。

これらを踏まえると、佐藤がもらってきた川のまつりは非常に意味がある。地域資源を掘り起こせ!とまちづくりの教科書的な書簡や大学教授はよく言うが、実際に事実を掘り起こして愛を持って次世代につなぐ事こそ、まちづくりなのだと筆者は思うのだ。

2019年7月18日 文責・岩田 武

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