犬山城とはなにか?年輪年代測定にみえる謎をまとめてみた

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犬山城移築説をご存知の方は多いのではないだろうか?今建っている犬山城はもともと美濃金山(岐阜県兼山町(現可児市))の山の上に建っていた兼山城を移築したという説だ。

しかし犬山市の教育委員会の資料を覗いてみると、犬山城移築説の話は一切書かれていない、というよりその話題に触れていない事がわかるはずだ。

犬山城はどこからきたのか?犬山城の元の形は?いつ、誰が建てた建築物か?謎が多いと言われるが、犬山以外で伝承が残ってるのは何故か?これら疑問を今刊行されている資料から紐解いてみた。また、2019年から2020年に行われた犬山城の柱を利用した年輪年代測定法の結果から、犬山城を多角的に考察。少々長くなりそうだがお付き合いいただければ幸いだ。

そもそも犬山城は誰が建てたのか?

犬山城は犬山市の教育委員会によると1537年(天文6年)に織田信長の叔父にあたる織田信康が木下城を廃城し今の場所あたりに建てたとされている。

はっきりしないのは信長公記にも犬山里語記にも1560年代に起こった信長の犬山攻略戦に犬山城の記載がないことだ。同書籍には信長が犬山を攻め落とした際に入城したとされる城の名称が「三光寺山城」という記載なっていて、焼き討ちした寺院の名称をはっきりと記載しているのに犬山城という文言は一切見ることができない。

織田信長が犬山を攻めたのは桶狭間の戦いの後とあるので1537年以降のはず、市町村の史実の基となった書籍にはっきりと記載がないのは犬山城はなかったのでは?と考察するのに十分な資料となる。

では1537年に建てた犬山城とは実はなんだったのか?はっきりとした記述やその時代の文献資料がないため実はわかっていない。が、三光寺山の記載は明治まで残っていたし、今現在「三光寺稲荷神社」という神社が針綱神社の隣にある。その神社の由来が実は不明で、一節によると犬山城の城主であった成瀬家が祀っていた稲荷神社だったとかいろいろな説がある。

そもそも犬山城という記載が歴史の資料に載ったのは江戸時代になる直前、桃山時代の末期のことだ。そしてその伝承は犬山市ではなくお隣の可児市の史実に「金山越し」という伝承としてまことしやかに載せられているのだ。
犬山では否定されているはずの金山越しが1935年(昭和10年)の犬山城重要文化財指定の際の決定事項に記載があり、憲法改正後の1952年(昭和27年)の国宝指定の際の理由となっているはずなのに、その後金山越しの史実が伝承だけとして表に語られないのはなぜなのか、謎である。

犬山城は昔からあの姿だったのか?

犬山城を好きな人の中には犬山城は教育委員会が発表している年代にあの姿の1階と2階部分が先にあり、関ヶ原の後に3階と4階が増築されたという説を支持している。

もし増築説が正しいとして、信長公記、犬山里語記などにみられる「三光寺山城」の記載は何かと問いたい。この三光寺山城こそ信長時代の犬山城だったのでは?と文献を広げてみて思うのだ。

犬山城の記載が初めて歴史の参照文に出てくるのは小牧長久手の戦い以降のこと。それまでの犬山城を記した文献が残っていないのだが、他の市町にある当時の城跡を復元した建物を見る限り、現在の立派な建築物ではない、武家屋敷のような造りでそれを城と呼んでいたのだ。また、動乱の時代に小牧山城以外で立派な山城が建てれたのだろうか?小牧山城でさえ当時の姿と現在復元されている姿は違う。他にも疑問に思うことはたくさんある。

大口町の小口城跡へ行ってみてわかったこと

同じ愛知県内で犬山城からもっとも近い城跡復元建築物として丹羽郡大口町の小口城跡がある。

ここには小口城城跡の発掘調査、文献に残されていた小口城の姿が再現されていて、どの角度から見ても武家屋敷の趣がある屋敷になっている。

つまり室町時代末期のお城とは小口城のような形が一般的だったのではないかと想像させる。

小口城跡を散策すると、1570年代は犬山城はあの姿ではなく、違う場所にあった武家屋敷もしくは武士の詰所のような建物で、木曽川を望んでいたのは神社かなにかでその境内には武家屋敷らしい建物があったのではなかろうかと想像させる。

地形的に建築物を建てる場所として、美濃方面の監視であれば元々三光寺があった場所が最適だ。敵の監視や武具の集約などは簡素でも神社の建物を利用して作られた櫓や神楽殿などが武家屋敷の代わりの役割を担っていたのではないだろうか。想像すると面白いものだ。

年輪年代測定法から判明した事

2019年から2020年にかけて犬山市は犬山城の修繕工事を行った。その際に犬山城内の柱などの木材を年輪年代測定法という化学分析をおこなっている。その報告書が名古屋工業大学の麓教授より出されているのだが、その報告内容は研究者だけでなく犬山城に興味のある人たちに驚きをもたらした。なんと1階の柱と3階の柱の伐採年代は1580年代と測定されたからだ。その報告によって、これまで1階と2階が先に建てられ、3階と4階はのちに増築された城という定説が覆された。また、1580年代に今の犬山城の形ができていた証明にもなった(犬山城だったかは明言をあえて避ける)。

ただしこの化学的な検証だけでは犬山城移築説の根拠は十分とは言えないが、犬山城移築説の信憑性が高まったことだけは間違いない。犬山市内の学術研究者の間で議論が活発になるかと思われたが、2021年に麓教授が発行した報告書には移築説の再度の否定と自身の定説の再検討が必要との報告にとどまるのみであった。

筆者が一つ不満なのは犬山市内の学術研究者、愛好家の間でこの「犬山城移築説」を封殺しようとしている傾向に憤りを感じる。またそれが成瀬家への忖度、姫へのお気遣いが感じられる点は歴史を曲げてしまうことになりかねない。マニアを自称するならばもっと積極的に働きかけるべきだし、学術研究者は元の持ち主(?)への忖度なんてやめてしまえばいい。

犬山城を管理している白帝文庫はほぼ税金で運営されているのだから持っている文献、資料は全て出し、研究資料として教育委員会主体で研究するべきだと筆者は思う。

もしそれができないのであれば全て「造られた歴史の中の話」になってしまわないだろうか?この点をとても危惧している。もう城主はいない、パブリックな建物としての国宝犬山城である、万人に開かれた議論を切に願う。

 

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