【連載コラム】賊がいた!~尾張をひらいた木曽川文化

【広告】

SNSアイキャッチ

愛知県と岐阜県の境を沿うように流れる木曽川。愛知県犬山市には伝統の漁法鵜飼が1300年ほどつづいていて、犬山市を訪れる観光客を楽しませている。

中流域の木曽川は古地図を覗くと今の流れ方とは全く違うことがわかる。長野県木曽町から流れた一筋の流れは、洪水や渇水の歴史を繰り返しながら流れを変え、堤防ができてダムができ、現在の地図に至る。木曽川沿線の町々では夏に夏祭りを行う風習が残っていて、上流の木曽町から下流の桑名市まで木曽川の流れに感謝と祈りを込めた祭りが、今も昔と変わらず執り行われているのだ。

犬山市は木曽川の中流域に位置して、江戸の時分から木曽川を使った水運業で財を成し、町が栄えていた。その名残の一つが犬山祭で、毎年30万人もの見物客が訪れる東海地方でも屈指の祭りとなっている。犬山祭は木曽川に祈りを込める祭りではなく、日頃の商いの感謝と、町の発展を祈った祭りである。

また、過去を紐解くと、犬山市にはもう一つ木曽川に感謝を込めた祭りが執り行われていた。現在は三光稲荷神社と名前を変えて、ハートの絵馬で人気の神社が昭和のはじめまで寺社であったことを知る人は少ない。神仏併合、仏社統合の折、三光寺は神社に名を変え、三光稲荷神社は現在の場所に座している。鵜飼の船頭たちは三光寺の守護を受けながら川で漁を営み、水運業の担い手として働いていたのだ。その三光寺では津島神社の天王祭の流れを汲む祭りが、毎年夏になると執り行われていたと記録にあった。少ない文献が頼りだったのだが、間違いなく木曽川に感謝と祈りを込めた祭りが執り行われていたのだ。

この話は犬山で様々な原因が重なりなくなってしまった川祭りの話。取材を進めていくうちに川文化が犬山だけでなく木曽川沿線の町々の発展に寄与し、支えてきた人の営みを垣間見ることができた。

この連載は木曽川で営んでいた川並衆の取材メモ。昭和初期を知っている老師から貴重な話を聞き、自分の足で歩いて見聞きした記事だ。願わくば川並衆の営みがどの様な様式だったのか、伝えきることができれば幸いだ。

犬山鵜飼の歴史は1300年?

犬山の鵜飼漁の歴史が1300年以上続いていると市内に済んでいる方なら聞いたことはないだろうか?

犬山鵜飼の歴史は、江戸時代からはっきりと記録に残っている。漁としてあったというだけで実は文字として残っていない(もしくは解読されていない)。

1300年続いているとなると江戸よりもはるか前、700年代なので町では商いよりも狩猟生活が主だった頃ではなかろうか?記録は犬山ではなく対岸の美農の国に残っていた。

栗栖という地区は縄文時代の石器や土器が出土しているので学術的にその地区は人が住んでいた。また、犬山城城下にある歴史資料館の発掘調査では弥生時代の土器が出土している。そのため現在の城下町にも人が住んでいて、営みがあったことが証明される。

狩猟を主に生活していたなら川での漁生活があったと想像はできるが、鵜を使った漁を石器時代の人たちが営んでいたとは少し考えにくい。歴史を文字に残した時代から数えて、鵜飼漁はがあった(伝わっていた)と考えるのが妥当だろう。

また、犬山の鵜飼は一度江戸時代に潰えている。1809年に犬山城城主が禁止令を出したとある。そこから90年後の明治時代に鵜飼の復興運動が起こっているので、犬山では潰えたが鵜沼では鵜飼漁が行われていたと推察できる。

歴史が1300年というよりも1300年ぐらい前から鵜を使って魚を獲ってたであろう、といったほうが正確なのかもしれない。

犬山には大きな祭りが2度あった?

犬山には毎年春になると犬山祭が開催されている。現在では年に一回、4月に開催する習わしになっているが、江戸時代は旧暦の春と秋に開催していたようだ。春にその年の豊作を祈願して秋にその年の収穫に感謝した祭りだと言える。犬山祭の催事の中には厄男が街中を練り歩くことも行う。厄年のお祓いも兼ねているのだ。豪華絢爛さの裏側には神事がしっかりと受け継がれているのである。

また、犬山には各町々で夏に祭りが行われていたと記録にある。この各町々の祭りは津島神社の天王祭の流れを汲んでいることがわかった。もっとも規模の大きい夏祭りは三光寺(現在は三光稲荷神社)の夏の大祭としてまきわら舟を木曽川に浮かべその年の厄を葦に詰め、天王祭で奉納していたと犬山市史に載っていた。このことから天王祭前に葦に厄を詰めて流す習わしが犬山にあったのだ。

犬山で川まつりがなくなってしまった理由

犬山で天王祭の流れを汲んでいた祭りは確認できただけでも3箇所。材木町、鵜飼町、内田町の3町が中心となって執り行っていた三光寺の例大祭。入鹿池周りの集落で行われていた夏祭り。楽田地区の夏祭りも天王祭の流れを汲んでいた。

特に三光寺夏祭りはまきわら舟が木曽川に浮かび、最盛期には先の3町に城下町の2町が持ち回りで加わり、櫓を組んで、川面で花火が上がり盛り上がりを見せていた。

しかし昭和32年の伊勢湾台風で櫓やまきわら舟の資材が流れてしまったり、提灯の火が燃え広がり火災が発生したりと、祭りで使われる資材がなくなってしまったことが原因で衰退。犬山ホテルができた頃に賑わしでまきわら舟を出してはいたが、祭りそのものはなくなってしまった。

また、昭和39年に完成した犬山頭首工も材木町と鵜飼町、内田町を分断してしまう結果となった。加えて300人ほどいた各町の船頭衆、川並衆が会社に雇われたり、廃業したりと川で漁をして営む漁師の減少も祭り文化の衰退に拍車をかけた。

結果、木曽川での川まつりはまきわら舟を浮かべ、木曽川に安全を祈ったり豊漁を願ったりする神事の祭りではなくなり、花火を楽しみ、屋台を食べ歩く観光の祭りに様変わりしたのだ。悪いことではないが、祭りの本質をなくしてしまっていると感じるのは筆者だけではないはず。

では祭りの本質とは?と問われると困るのだが、木曽川で漁師がどう営んでいたか?は今ならまだ掘り起こして話が聞ける。学術的な見解は学者に任せて、筆者は筆者の出来ることを綴ろうと思う。

この連載を期に、今よりもっと木曽川のことを気にかけてくれる人が増える事を説に願う。

 

2019年7月7日 文責・岩田武

タイトルとURLをコピーしました