犬山の歴史を知ろう!~

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「犬山さんぽ」編集長の岩田です。いつもご閲覧ありがとうございます。
犬山市が定期的に開催しているフューチャーセッション(以下FS)内で色々と意見が出た中、僕自身、最も重要な「そこに行く理由」を見失ってはいないだろうかと、そんなことを感じてしまいました。

一つ考えてみて下さい、もしあなたが観光で他の市町村へ行く時、何を求めていきますか?
多くの場合は「あそこでしか食べられない物がある」とか「あそこでしか体験できないことがある」ではないでしょうか?代表的なのは京都、街を歩けばそこには非日常が溢れた日本を代表とする観光都市ですよね。
では犬山はどうでしょう?尾張の小京都と言われているものの、犬山城は名古屋城にくらべどうしても小さく、見劣りします。城下町も然りです。

街を行き交う観光客は増えはしましたが、TVなどのメディアの影響が大きく、街としての魅力を発信しているまでは至っていません。

犬山には「明治村」「リトルワールド」「日本モンキーパーク」というアミューズメントパークが3つもあります。また、冬になれば入鹿池ではワカサギ釣りに興じる釣り人が沢山います。

昨今のインスタグラムというムーブメントに若い世代が沢山犬山を訪れているのも事実ですが、流行が去った時の事を心配している経営者の声をチラホラ聴くようになりました。

では、この状況を何から変えていくのか?何が足りないのか?と大きく考えてみると「発信力」と声を聞きます。では何から発信するのか?コレを掘り下げる必要があるのではないか?そんなことを考えます。

今回は以前まとめた記事に大幅に加筆してお届けします。何かを考えるきっかけになれば幸いです。

地域ブランドとは?場所を知らなくても知名度が高い理由

※「児島ジーンズ」岡山発祥のジーンズメーカー。今や日本を代表するジーンズですね。

地域振興の問題点を目線変えた意見を仰ごうと友人にアドバイスを頂いた事があります。お話を伺う中で気付かされる点が多かったためまとめてみると、

今治タオルがなぜ今治の特産なのか?

児島ジーンズはなぜ岡山なのか?など、

特産品の地域ブランドはその土地の歴史が深く関わり、地元愛を持った地元の企業が育ててきたことが、今の特産品ブランドの大きな特徴の一つです。もちろんそれだけではないのは当たり前ですが、例を上げるとキリがなく。例えば…

  • 横浜はなぜジャズの街なのか?
  • 大阪はなぜ食のイメージが強いのか?
  • 京都は?
  • 百貨店で開催される北海道の物産展はなぜどこも大盛況なのか?
  • 名古屋の味噌文化は?

どれも街の歴史や文化を脈々と受け継いできたからこそ、今に繋がるのです。つまり、「歴史」「文化」を紐解いていくと、その街の人たちが脈々と受け継いできた歴史や文化が人を寄せる理由になっていることに気づきます。すなわち人こそ文化の象徴で、歴史を受け継いできた証人でもあるのです。

「街を起こす」とは

その土地の歴史、文化に触れる事でもあり、その土地を知ってもらうには発信する誰か一人が、もっと深い理解をもって発信しなければ行けないようにも思います。ではどのように見聞を広げるのか?と考えた時に、まず歴史から調べねばいけませんね。そんな訳で早速、「犬山市図書館」へ歴史を調べて参りました。

犬山市の歴史を紐解いてみました

犬山市の城下町、今では立派な観光地ですね。しかし、ここへ来る目的以外に犬山がクローズアップされるとしたら、
・「日本モンキーパーク」「明治村」「リトルワールド」といった3つのアミューズメント。
・「犬山城」「武家屋敷跡」「成田山」「大縣神社」「古墳群」といった歴史史跡。
さて、先に挙げた児島ジーンズや今治タオルのような産業は?となると、歴史的にも無いのです。色々と調べてみたのですが、江戸から昭和、平成まで続いている産業は犬山には無いのです。(産業とは一子相伝の造り酒屋を除きます)

しかし、犬山としての歴史はとても古く、平安時代から大縣神社は神社として機能していたし、古墳も多いことから平安よりも前には文化として犬山地区が機能していたことが読み取れました。

さて、犬山には本当に産業がなかったのでしょうか?実は、昭和初期から平成になるくらいまで「生糸」の生産が盛んな街だったようです。今では生糸農家もなくなってしまったので、木曽川沿いにある「東洋紡」がその名残を残すだけになっています。そうなると犬山はどのように発展したのか?と気になるところですよね。

歴史を紐解いていくと意外な事実がわかりました。

江戸時代の犬山は商人の街だった?

犬山城のお城付近の地図を見てみると、木曽川が流れ、北側には中山道の鵜沼宿があります。
古来より木曽川の堰の工事はあれど、水上交通の要所だった犬山には、材木の関所跡、城下町の旧邸にみる、商屋の街であったと推察できます。実際、文献には「株会や問屋が軒を連ねていた」との記述もあり、犬山は城下町を中心に商業で発展していた街だったのです。

これと言った産業は犬山焼という陶芸が江戸時代は盛んでしたが、明治以前に全ての窯元が廃業されています。産業が継続されなかったのには、元々商人の街だったことも原因に挙げられます。では、犬山はどこと交易していたのでしょう?

文献からは「鵜沼、可児といった美濃地方から運ばれる物資や鮎、鱒などの水産品、木曽から材木の買い付けをして木曽川から下流の街と交易していた」とありました。地理的に犬山から陸路で名古屋、川を利用して一宮やその下流と交易していたと推察出来ます。

また、面白い記述があり、「江戸時代初期には『犬山商人』が現れていて、尾張藩の中でも有力な商人集団であった」とありました。有力な商人が江戸時代初期にはいたのです。しかも「犬山商人」と呼ばれていたようで犬山は江戸の頃より周りの街を巻き込んだ商業が発展していた交流地点のような街だったのです。

では「犬山」を売り込むには何が必要か?

犬山駅を出ると迎えてくれる看板

これと言って産業が無いのではなく、商業地区として発展した犬山。では今後どのようにその特色を売り出していけばいいのでしょう?お土産文化として犬山ブランドは当然今後必要です。しかしその前に「犬山に来れば、〇〇産の〇〇が買えるんだぜ!」的な特色を出せていけたら面白くないでしょうか?

周りの市町村まで行かずともそこで手に入るって、まさに江戸商人の商売方法です。地元としての特色ではなく、美濃地方や尾張北部の文化交流地点としての特色を出していけると、それこそ差別化が図れます。その上で犬山の「今ある魅力」を発掘し続ける。他の特産品ビジネスとは違う戦略が必要ですが、江戸商人に学ぶと犬山の特色や文化をもっと活かせるように思えてなりません。

では次回はもっと具体的に、犬山以外の街はどのような企画を組んで盛り上げているのでしょう?

取材してきますので、でき次第ご報告いたします。

と、その前に…江戸商人の事を書いた本があります。この本に書いてある記述がそのまま犬山に通じているわけではありせんが、現代のマーケティングに通じる思想が学べます。

よろしかったら読んでみて下さい。

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